虹ノ松原 (唐津)

(2009年十一月唐津鏡山より撮影

遥か下虹ノ松原冬霞 (唐津鏡山)
下界なる虹ノ松原冬霞(唐津鏡山)

唐津湾沿いに、虹の弧のように連なる松原。唐津藩初代藩主、寺沢志摩守広高が、防風・防潮林として植林したのが始まりで、全長5km、幅1kmにわたって続く松は、約100万本と言われています。今では、三保の松原、気比の松原とともに日本三大松原の一つに数えられ、国の特別 名勝に指定されています。NHK「21世紀に残したい日本の風景(BS2)」の投票で、第5位 に選ばれました!(唐津観光協会)

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世界の俳句

有季‧無季 定型.自由律 花鳥諷詠‧人情世故  時事‧社会 客観写生‧主観感動

 みんな みんなの母語でよむ俳句

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齢七十五にてつと去りし日を振り返りみて我自身を知る…
波の間に間に 流されるまま 人を羨むことなく 求めることなく
世間と争わず なれど 荒波に遭うを 免れ能わず
思いもよらない 公務員年金を亨く 多からずとも又 少なからず

命を保つに 憂うこと無し
キーボードを たたいて インターネットに遊ぶ

得るところ有れば 又与える事もあり
名利共に 余生の外にあり
(オーボー真悟)
#お知らせ!!
e-book (オーボー真悟の短詩集)を刊行しました、ご興味のある方は下記のアドレスhttp://www.olddoc.net/oobooshingo-poem.pdf をプレスして下さい、無料でダウンロード出来ます。                    
 (オーボー真悟)
The Global HAIKU Net: https://olddoc.net/global-haiku/index-H.html

2012年2月22日水曜日

俳句(HAIKU)-0112

外来にうごめく白髪着膨れて(12-02-22)
  上げた足踏み殺すまじ蟻の列(12-02-22)
  ハビアンも道に迷うや春の夜12-02-04
      (呉昭新;オーボー真悟;瞈望)

幾松(京都料亭-2011)

2012年2月19日日曜日

コメントー野口裕-001

 日本語の定型詩の歴史を概観すると、五音と七音にとらわれない古代の歌謡から、五音と七音の繰り返しを基礎とする長歌、それを集約する形で成立する五七五七七の短歌、短歌を分解して五七五と七七を複数の人間で繰り返してゆく連歌・連句、連句が独立した一句になる俳句・川柳という流れになります。
 このうち、五音と七音がなぜ基礎となったのかについては、中国から輸入された五言詩や七言詩の影響を指摘する学説もあるようです。その正否のほどは、専門外の当方にはわかりません。八音と六音を基礎とする琉球歌謡(沖縄民謡といってもいいでしょう)があるように、これは実際に声に出して歌われる歌のリズムやメロディーラインにまで踏み込まないと、決着の付かない問題でしょう。
 ただ、詩型の長短に差はあっても、五音や七音が基礎になる漢俳が提唱されたのは興味深い現象だと思っています。同じ五音、七音といっても、言語によって含まれる情報量は異なるでしょうから、呉昭新先生が書かれている、「最初に見つけた「漢俳」と言う言葉、しめたと思ったのも束の間、直感的に感じたことはこれは一寸俳句と違う、ただ字数、音数が同じ十七字または音と言うだけで、内容が大分違う…」は正鵠を得た文章だと思います。
 しかし私は、五音や七音が言語が変わっても定型詩の基礎となり得る、という別の面に驚いているところがあります。情報量において俳句に匹敵するだろう「曄歌」が真に定型詩たり得るかは、基礎となる三音四音が文字通りの意味で「人口に膾炙する」かどうかです。こればかりは、作者の判定することではなく、読者の領域に属すると思います。
 日本語の詩の歴史で似たような事情を感じる例は、フランス語の詩を日本に紹介するに当たって功績のあった上田敏の仕事です。彼の翻訳したフランスの詩は、

落葉
           ヴェルレーヌ(上田敏.訳)


秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し。


鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。

といった調子です。フランス語をよく知っているわけではないので、勘で言うのですが、おそらく元の詩のニュアンスとは異なる響きを持っているでしょう。しかし、この訳業がその後の詩の歴史に与えた影響は甚大なものがあります。漢俳と曄歌が今後いかなる「人口に膾炙する」詩を残すかで、趨勢は決まるのではないでしょうか。
 ちなみに、上述の翻訳詩は五音の連続で編まれていますが、現在それを試みる人はいないようです。明治期、いわゆる新体詩と呼ばれた、さまざまの定型詩型を試みる時代がありました。森鴎外などにその記録が残っています。そうした時代を経ていながら、五七五あるいは五七五七七が残っているということは、ある意味驚くべきことです。
 最後に卑近な例で、感想を締めくくります。
 日本でごく普通に食べられる「カレー」は、発祥の地であるインドのカレーとはまったく味わいの異なる料理になっています。これは、明治期に西洋式の軍隊を導入した時期に、軍隊食としてカレーを取り入れて以後、庶民の舌になじみ独自の進化を遂げて今日に至っています。カレーうどん、カレー南蛮など、以前にあった日本料理との融合したものも親しまれています。
 他方で、こうした独自の進化を遂げた反動として、本場のインドのカレーはこのようなものであるという例示で、本場インドのカレーを給するインド料理店、あるいはカレー文化の中継地点となったイギリス風カレーを給する店が成立しています。こうした店では、しばしばカレーではなく、カリーと表示されるので、
 ビーフカリーは最も淋しい朱夏である(攝津幸彦)
という句もできあがります。
 私としては、漢俳と曄歌の両型が発展して行くよう願っております。カレーとカリー、ふたつがともに味わえるのが良いのではないでしょうか。

補足:
日本語のリズムは、ほぼ四拍子のみでできあがっており、五音七音が四拍子になじみやすい、という論は、


詩的リズム――音数律に関するノート(大和書房 1975年) 菅谷規矩雄
日本語のリズム――四拍子文化論(講談社現代新書 1977年/ちくま学芸文庫 2005年) 別宮貞徳
日本詩歌の伝統――七と五の詩学(岩波書店 1991年) 川本皓嗣
などに記されています。
 上述の菅谷規矩雄について、とある読書会で報告する機会がありました。
その際に、日本語の歌でヒットしている曲はどんなリズムかと、ヒット曲200というようなタイトルの楽譜集を点検したことがあります。
平原綾香という歌手がホルストの「ジュピター」という曲に日本語の歌詞をつけたもの以外は、すべて四拍子でした。
後日、その楽譜集は手を抜いており、実際の平原綾香の歌は、原曲の三拍子を四拍子にアレンジしていることも判明しました。
この点も、日本語の生理が生み出したエピソードになるのではないかと思います。

野口裕

2012年2月16日木曜日

俳句(HAIKU)-0111

  小正月消えるあの影人込みに(12-02-06)

ばら肉や共に遊んだ草枯れる12-02-08
                               (呉昭新;オーボー真悟;瞈望)

2012年2月14日火曜日

俳柳-003

「ば」と聞けば濡れる女の弁士かな(12-02-03)
   裁判所オーナーは俺だ民主だぜ(12-02-03)
       (呉昭新;オーボー真悟;瞈望)
プラッハ(2001)

2012年2月13日月曜日

一外国人の俳句手習い手記-(2)-002

  小生は無母語の国のない国(連合国から認められていない)の住民である。十五歳から中国官話(mandarin)を外国語を習うと同じように習いました、それ以前に習ったのは日本語、所謂の母語と言えば当然台湾語だが、この母語は二つの政権の高圧的統治下においてほとんど押しつぶされて影を潜めて日の目を見ることはなかった。それゆえ小生の現在の常用語は生半可な中国官話、十五歳にして習ったのであるから当然生半可、母語でもないのだから(私は普通なみの能力の持ち主で、言語の天才ではありませんから)。

  さて、四年前、初めて俳句に手を染めてから、すこしづつ日本語を思い出して用をたして来ましたが、でも、どうしても日本語を母語とする人たちに比べれば語彙が足らず、言い回しもそれほど順調ではなく、その上昔覚えた日本語は、仮名使いも変り、字の形も変り、常用漢字という制限もあり、カタカナ語がめっきり増えたのはまだ良しとして、そのカタカナ語のオリジナルが推測できないほど縮められた頭プラス尻尾の省略ゆえ、困ったものです、、、、、。
  で、日本語以外の言葉で俳句を詠むとなると、どうしても常用語としている生半可な中国語官話に落ち着くのが当然、即ち「漢語俳句/漢字俳句」と言うことになります。
  最初に見つけた「漢俳」と言う言葉、しめたと思ったのも束の間、直感的に感じたことはこれは一寸俳句と違う、ただ字数、音数が同じ十七字または音と言うだけで、内容が大分違う、一寸ネット上をあさって見たら多くはないがたまさかそういう事を言う言論も見られた。その時の考えを小文にして本ブログにも載せてあるので、紙面節約のため興味のある方は、その項へお越し下さい。(漢語/漢字俳句) http://oobooshingo.blogspot.com/2010/07/002.html 


  前回申しましたように、最近発奮して猛勉強を始めましたところ、またまた、迷わずには居られなくなりました。と言うのは大抵の日本の方が「漢俳」を俳句とみなしている事実です。

  「漢俳」と言うのは、ここ二、三十年来中国で流行っている短詩型漢詩のことで、日本の「俳句」になぞって十七音の中国語短詩が作り上げられました。しかし「漢俳」はその内容の本質と情報量及び詩法に於いて「俳句」よりも日本の「短歌」に近いです。政治的原因もあったのか、日本の俳句界と漢詩界に煽られて、中国でも政治のトップが積極的に押した関係もあって、また元来の中国古詩よりつくり易いためか、瞬く間に人気を呼び、多くの作品がつくられ、出版され、その日本語訳も日本に紹介され、人気を呼んでいるようです。
  ネットをサーフしてみると「国際俳句交流協会」の「世界俳句事情」の紹介で葛飾吟社の代表理事である今田述氏が去年2011で、四回にもわたって中国語俳句として「漢俳」を詳しく紹介しています。今田氏は漢詩の大家、しかし、おなじ葛飾吟社に属する中山逍雀氏はそのブログで《俳句と漢俳》の題目で「俳句と漢俳は、詩法を異にする定型詩歌である」http://www.741.jp/kouza08/kou-08C43.htm と  「漢俳」は「俳句」とは本質的に違うとはっきり述べており、また元岐阜経済大学教授/上海俳句漢俳研究交流協会会長の朱実氏もその論文で〈俳句の形式に倣って漢字十七文字を五七五に配当する「漢俳」は、あくまでも中日文化交流の中で生まれた新詩型であって。俳句そのものではない。〉とはっきり言っています(朱實:《中國における俳句と漢俳》:「日本語学」:14: 53-62,1995,明治書院,東京,日本)。
  そのうえ日本の俳句にもっと近い「中国語俳句」があちこち見られるのも珍しくない今日この頃、どうしてこういうことになったのか、さっぱり納得がいきません、そのうえ日本の俳句を上手く「中国語俳句」(漢俳ではありません)に訳した俳句も多くある現状に於いて、これら「中国語俳句」の位置付けはどうなるんでしょうか?正直に言うて中山氏考案の日本語漢詩「曄歌」http://www.youka.cc/Ayouka/index.htm の方が「漢俳」よりも幾らか「漢語俳句」に近いのです、少なくとも情報量において。そのうえすでに日本でも六名もの方が「世界俳句協会」の《世界俳句2011第七号》誌に「曄歌」を発表しいる事実を前にしてどう解釈をすれば好いのか、「鈴を外すのには鈴を首に付けた人が必要だ」という俗語のごとく日本の方にお願いする以外はないと思います。
  最近日本に十年留学し文学博士号を取った金中氏(現中国陝西交通大學外國語學院教授)による「一語一句」の日本俳句の漢訳の提案も「漢語俳句」に適切な一つの形式であるべきである(《世界俳句2012第8号》pp. 86-98,2012,東京、日本)。
       2月9日に石倉氏のブログで「漢俳は錦上添花の俳句かな 」という名句を見つけた、確かに的を射た「俳柳」だ、さすがは漢詩三万首の漢詩人。http://shiciankou.at.webry.info/201202/article_29.html 


「俳句」を世界に広めるのにははっきりさせておく必要があると思いますが。


    (呉昭新;オーボー真悟;瞈望)

2012年2月11日土曜日

俳句(HAIKU)-0110

玉手箱開けて空しく落ち葉掃く(12-01-30)
 死を恐れ名利求めて秋暮れる(12-02-06)
 虎老いて行き逢う者も見えぬ振り(無季) (12-01-31)
   (呉昭新;オーボー真悟;瞈望)


         ウイーン(2001)

2012年2月8日水曜日

俳句(HAIKU)-0109


ガレージやミリオネア待つ初日の出(12-01-10)
大晦日母子(おやこ)抱き寝る地下歩道 (12-01-09)
寒凌ぐ浮浪児集う地下歩道 (12-01-12)
大晦日瞼にホームホームレス (12-01-11)
床の中起きそびれるや冬の朝 (12-01-12)
      (呉昭新;オーボー真悟;瞈望)
京都(1992)

2012年2月7日火曜日

俳句(HAIKU)-0108

温度九度桜の開く二月かな12-02-04)台湾2012/02/04

皆眠るこの世に独り夜長かな12-02-06
           (呉昭新;オーボー真悟;瞈望)
                                    大屯山(台北)

2012年2月4日土曜日

俳句(HAIKU)-0107

        音のなく夜しんしんと冬の雨(12-02-01)
        冬の雨タイヤの伴の水の音(12-02-01)
                 (呉昭新;オーボー真悟;瞈望)
ウイーン(2001)

2012年2月1日水曜日

俳句手習い手記-001

一外国人の俳句手習い手記―(1)12-02-01


ひょんな出逢いで始めた俳句、おつきあいで過ごした三年、何とか五七五と言葉を並べて俳句とか言うて作品を出してきました。
  去る九月ある句会に顔を出して自分の作品の未熟さに愛想がつきました。
  そのご半年、老身に鞭打って猛勉強、いや、あちこち齧りまわってやっとこの頃日本の短詩型ポエムについて少し分かって来たような気がしました、実際に気がしましただけです。
  あちこちと言っても本ではありません、もうよる年波で本はどんどん処理している最中なので、本は買う気になれません、ですから齧る対照は今はやりのネット。
  ネット上の俳句知識資料は一昔前までは大分貶されたようですが、若い人たちの情熱と真理の追究心に負けて、この二三年、目に見える効果を挙げています。もう俳句は年寄りの暇つぶしと言う時代から遠のいているようです、すいません私も年寄りですが(82歳)。そこで大胆にもそれを証明しようと目論んで、今日二月一日から心を持ち直して日本の短詩型ポエムに、始から取り組直そうと思っております。
  で、短詩型ポエムというても、俳句(伝統、無季、自律)、川柳、短歌、俳柳(五七五定型)などなどとジャンル分けをして、欲張りですがそれぞれ試してみようと思います。出来るかな? 
  一外国人の老後の楽しみ?いや苦労とご了承下さい。(神島オーボー)


大屯山 (台北)